ペルシャ絨毯とは、総じてイランで織られている手織りの絨毯を指します。
イランはパハラヴィー王朝期の1935年に「イラン」と改名、今では人口7000万人に達し、国土面積は日本の4.5倍もあります。
イラン(ペルシャ)の歴史は古く、国内には世界遺産にも指定されている5大遺跡(イマーム広場、ソルターニーイェのドーム、チョガー・ザンビール、パーサルガダエ、ペルセポリス)があり、世界中から人々が訪れる歴史の国でもあります。
そんなイランの歴史と共に、文化の発展に左右されず守られてきたのがペルシャ絨毯です。その歴史から簡単にご紹介します。
ペルシャ絨毯の起源は、4,000年前~5,000年前ともいわれており、その特定は難しいとされています。
当時の絨毯は、現在のようなパイル織りではなく、獣毛を固めたようなものであったともいわれており、実用品として日常に使用していたことからも、太古からの現存物というものはほとんどありません。
1949年、ロシアの考古学者セルゲイ・ルデンコによって、シベリアのアルタイ山脈中パジリク渓谷にあるスキタイ王族古墳から、盗掘をまぬがれ凍結状態になったことにより劣化が最小限にとどまった絨毯が発見されました。
およそ2,500年前(BC5世紀頃)のものと思われるその絨毯は、羊毛とラクダの毛の地糸に羊毛のパイルが大変素晴らしく、当時、位の高い裕福であったスキタイ王侯を葬る際に棺に納められた埋葬品の一部であったと考えられており、現存する世界最古の手織り絨毯、「パジリク絨毯」と呼ばれています。
約1.8m×2mの大きさで、中央部に格子文、5列のボーダー文様を配し、騎馬人物像やダマジカ、空想上の動物グリュップスなどの走獣文が巡らされ、閉鎖型・左右均等結び(トルコ結び)が用いられています。高度な技術とペルシャ絨毯の様式に沿った作品であることから、当初ペルシャで織られたものとされてきましたが、近年の見地から中央アジア説が有力となっています。
現在はロシアのサンクトペテルブルグにあるエルミタージュ博物館に保存されています。
考古学者セルゲイ・ルデンコはその数年後にもパジリク渓谷より西に約180kmのバシャダル古墳で、さらに密度の高い織りである絨毯の断片を発見、開放型・左右非均等結び(ペルシャ結び)であるこちらの絨毯は、パジリク絨毯よりもさらに130年~170年さかのぼるものであろうといわれています。
完全な形で現存しているペルシャ絨毯は「アルデビル絨毯」と呼ばれるもので、1539年にカーシャーンの人をモチーフに数人の職人の手によって制作されました。織りに34年、仕上げに6年、あわせて40年の歳月が費やされており、ロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート美術館に保存されています。
古代ペルシャの宗教は、アラブに支配されイスラム教がもたらされるまで、空気、水、火、地の4つを「神聖な元素」と讃えるゾロアスター教でした。
農耕と牧畜を高貴な職業としていた信仰は、古代期のペルシャ絨毯のデザインや文様に多大な影響を与えたと伝えられています。
この頃、クテシフォン宮殿の織物「ホスローの春」が作られました。
サーサーン朝ペルシアの都、クテシフォン宮殿内には、金・銀・貴石で飾られた50帖敷きの巨大な織物が存在したと、アラブの史家タバリーが残した「諸預言者ならびに諸王の歴史」にも記されています。
バハレスターン絨毯やゼメスターニー絨毯(冬の絨毯)との異名も持つ「ホスローの春」は、草花や果樹を織り出すことで春を表現しており、冬の宮殿を飾っていたものでした。
絨毯ではなく平織りの布に刺繍したものであったろうといわれていますが、後に2代正統カリフであるウマルのもとに送られ、バラバラに分解し兵士たちに分配されたということです。
今や影も形もなくなってしまった幻の絨毯「ホスローの春」、その伝説の艶姿は残念ながら確認するすべもありません。
1500年、イスマーイル軍はイラン北西部のダブリーズ(白羊朝の首都)を占領、即位して「シャー(王)」を称し、大帝国サファヴィー朝を復興しアフガニスタンのヘラートからイラクのバグダードまで制圧しました。シャー・イスマーイルに統治されたペルシャ絨毯の黄金期ともいえるこの頃は、建築、絵画、絨毯製造などの工芸と文化が発展しました。
とくにシャー・アッバース帝の治世には、イスファハーンに都が遷されてのち数多くの絨毯工房が新設され、新しい王宮、庁舎、邸宅の建設ラッシュと共に絨毯の需要が増大、宮廷工房も設立され、羊の飼育から染料植物の栽培に至るまで、一貫して宮廷敷地内で行われたといいます。
また、この頃の宮廷工房では、外国の王族や高官への贈答用に絨毯が織られており、輸出品としてもイスファハーンやカーシャーン、ジョウシャガーンなどの工房でも数多く制作され、このグループの絨毯を「ポロネーズ絨毯」と呼び、現在、世界で約230枚見つかっています。金糸を使った絹の華麗な絨毯は、のちのインドのムガル朝やトルコのオスマン朝などにも影響を与えました。
当時の産地はイスファハーンだけでなくカーシャーン、ケルマーン等が盛んでしたが、他にもヤズド、ホラーサーン(ヘラート)などがあり、今日の絨毯デザインのほとんどはこの時代から派生したものといわれていますが、宮廷画家の描いたデザインが元になっているとも伝えられています。